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 新着情報  
2019年度 津市中小企業振興事業補助金のご案内 『商工会よりお知らせ』
津市では、市内の中小企業者の経営基盤強化及び地域経済の活性化を図るため、@人材の育成、A新商品等の開発、B展示会等への出展、C生産性向上設備の導入等に要する費用の一部を補助する津市中小企業振興補助金の交付を希望する事業者を募集します。詳細につきましては、添付画像をご覧ください。

 添付ファイル: scan-13.pdf (1238KB)

三重県経済の動向(三十三総研) 『商工会よりお知らせ』
三重県の毎月の経済動向について三十三総研(三重・第三)からレポートが公開されています。

 関連リンク: https://www.miebank.co.jp/33ir/research/mie_keizaijyousei.html

三重県経済の動向(百五経済研究所) 『商工会よりお知らせ』
百五銀行では、毎月、三重県の経済動向について、経済指標を基にレポートが作成されています。

 関連リンク: https://www.hri105.co.jp/research_report/doukou/

三重県の景況調査結果報告書 『商工会よりお知らせ』
三重県では、四半期毎に県内事業所を対象にアンケート調査による景気動向調査を行っており、より効果的な産業・経済活性化の施策に反映させています。

 関連リンク: http://www.pref.mie.lg.jp/D1KOYOKEI/75398044105.htm

総務省統計局消費者物価指数 『商工会よりお知らせ』
消費者物価指数は、全国の世帯が購入する家計に係る財及びサービスの価格等を総合した物価の変動を時系列的に測定するもので、「経済の体温計」とも呼ばれており、経済政策を的確に推進する上で極めて重要な指標となっています。

 関連リンク: http://www.stat.go.jp/data/cpi/

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 詳細情報
かわげの伝承 「利平さんと狐(北黒田地区)」 
利平さんと狐
(利平さんと狐)
利平さんは、ふだん田畑を耕しながら、近くの村々に相撲ののぼりがたつと出かけていく田舎相撲の力士である。
 身長、体重ともに人なみはずれた大男であった。しかも、動きがすばやく足腰も強かったので、相撲や速駆けは得意であった。ふだん山坂をこえて、重い荷物をかついだり、遠くの町までてんびん棒で荷を運んだりしているので、体はきたえてある。
 利平さんは、相撲大会がはじまる前になると、そわそわして落ちつかず、夕方早く仕事を終わって、下之庄(しものしょう)あたりまでけいこに出かけていった。相撲は勝ち星さえあれば、いくらかの懸賞金があるし、好きなお酒も賞品としていただけるので、他所の祭でもけっこう楽しいのである。
 特に亀山藩では、相撲をおおいに奨励しているので、その大会は盛大で三日ぐらい続いていた。今日は大会の初日が終わって、仲間と祝杯をあげながら相当酔ってしまった。
 ごちそうの折詰を持って夜道をぶらぶらと帰ってくると、いつも三行を過ぎるころは夜もふけてくる。弥尼布理(いねふり)神社の近くになると、疲れが出てくるのか安心するのか、山道の土堤にもたれてひと休みする。
 するといつの間にかいい気持ちになってくる。そのうちにあたり一面花が咲き乱れ、よい香りがただよい、遠くで美しい女の人がおどっている。それにみとれていると、いつの間にか眠ってしまった。
 半時(約1時間)ほど眠って目が覚めると、ごちそうの折詰がない。利平さんは、
「また久知野木の狐にばかにされてしもうた。くそっ、欲しけりゃ欲しいといえ。」
というが、狐はいえるはずがない。
「今夜もまた子どもたちにやるみやげがない。」
とつぶやきながら、坂を下って帰っていった。
 次の日は負けが多くて、酒肴にはありつけなかったが、大根やみかんを亀山まで運んだので、その駄賃のお金が少々はいった。
 今日は油揚げを買って家のみやげとし、それを包んでてんびん棒の先へ「ふご」といっしょに結び、肩にかついで帰ってきた。
 久知野とのわかれ道のところで、かついでいた棒が急に重くなった。
 利平さんは、今夜は酔っていなかったので、
「いたずら狐め、棒に飛びついたな。」
と思ったが、気づかないふりをして鼻唄を歌いながら、平子山のてっぺんの道まできた。
 この道の眼下には広々とした新池がある。
 利平さんは思い切って、
「えいーっ。」
とかけ声をかけ、てんびん棒と荷物などを十メートルほどの下の池へ放り投げた。
 「ふご」にのっかっていた狐も、まっさかさまに池へ落ちていった。
「ジャバン!」
という大きな音がして、そのすぐ後で、
「ジョボ、ジョボ……。」
と小さい音が続いた。三月といっても初めのころはまだ水が冷たいので、少しかわいそうな気がした。
 あくる朝新池へいくと、棒や荷物は岸に浮いていたが、狐の姿はみえなかった。
 それからしばらくの間は、どこも相撲はなかったし、また田畑の仕事もいそがしかったので、狐のことは忘れていた。
 田植えがすんで、三行の法事の帰りにいつもの道の切り通しを歩いてくると、両側の山の上から、パラパラと砂や土が降ってきた。
 利平さんは、頭から砂をかぶってしまった。
「こりゃかなわんなあ、狐どもの仕業やな。」
とつぶやきながら走って帰った。
 亀山へけいこに行ったとき、仲間の中に花火師がいて、
「手筒花火でおどしてやんな。あげ方を教えたる。」
といい出した。
 さっそく、その家へいって、点火の仕方や筒の持ち方などを教えてもらったが、けがをしないようにするには、このわざはなかなかむずかしい。たびたびかよってやっと覚えたので、いつかこの花火をあげてみようと待っていた。
 七月の暗い晩、今夜あたりまたいたずら狐が出そうな気がしたので、一本の手筒花火をかついで、いつもの道を歩いて帰った。
 久知野とのわかれ道のところで、休んでから切りとおしの手前までくると、山の上に狐どもの動く気配がする。利平さんは今夜こそ狐どもをおどしてやろうと考えて、山の手前のところで立ち止まった。
 そして教えてもらったとおり、立ち止まって筒を持ち、花火玉を入れて点火した。
 花火は山上をめざして一気に吹き上げた。あたりはまったく昼のような明るさになった。
 たくさんの火の粉が、強い勢いで飛び散り、それが下から吹きあげ上から降ってくるので、びっくりした狐どもは、
「ギャー、ギャー……。」
と鳴きさけびながら山上を逃げまわった。
 しばらくして、花火が下火になったので、筒を持ってとおっていったが、どの狐も砂をかけてくるどころか、初めてみた火の粉の恐ろしさに失神したかのようになってふるえていた。
 その後、利平さんが油揚げや折詰を持ってとおっても、狐はこわがって近寄らずにむこうの山からみているようであった。
 利平さんは、それからも、たびたびこの久知野木の道をとおるが、狐がいない山道は、とても静かでなんだか気味悪く思えてきた。
「やっぱり、狐がいない道はさみしい。」
とひとりごとをいいながらとおっては、いつもの所へ油揚げや魚などを少し置いてくることにしていた。
 利平さんには「しゃく」という持病があって、四十二歳の厄年に急にあの世にいってしまった。
 その後、狐の一族もどこかへいってしまったのか、あの口と目のとがった姿はもうみられなかった。

【かわげの伝承より】
かわげの伝承 「のべや坂のオオカミ(一色地区)」 
<font color=red>のべや坂のオオカミ</font>
(のべや坂のオオカミ)
 豊津から三行をぬけて亀山にいくのには、のべや坂という峠をとおって行く。この峠は三行にある。昔両側は森で、昼間でもあまりとおらないぶっそうなところだった。一色の七兵衛光(しちべえみつ)の先祖に七之丞(しちのじょう)という人がいた。この話は、七之丞がのべや坂でのべや坂で出会ったオオカミの話である。
 七之丞は、毎日朝暗いうちから、のべや坂をとおって亀山まで魚を売りにいっていた。その日は、帰りが遅れてしまい、のべや坂をとおるころには、日はとっぷりと暮れ、あたりはまっ暗となっていた。
「この峠さえ超えれば……。」
 七之丞はさきを急いでいた。ちょうど峠にさしかかったときだった。一匹のオオカミが道へ出てきた。
 七之丞に緊張が走った。もっていた出刃包丁を取り出し、オオカミに身構えた。するとどうだろう。意に反してオオカミは道の真ん中にすわりこんだ。そして、口を大きく開けるではないか。不思議に思った七之丞はオオカミをじっとみつめた。襲ってくる気配はまったくない。
「はあん。」
 七之丞は、悟った。
「ああ。のどにささった骨を抜いてほしいんだな。」
 七之丞は、オオカミにゆっくりと近づき、
「骨を抜いたる。が、おれを食ったら包丁でさし殺すぞ。」
と、いいながら、右手に手拭いを巻き、左手にはしっかりと出刃包丁をにぎり、口の中をそっとのぞき込んだ。すると骨がのどにまっ立てにささっていた。七之丞は、手をオオカミの口のなかへ入れ、骨を抜いてやった。オオカミは、何度も何度も頭をさげながら、喜んで帰っていった。
 その日以来、七之丞が亀山へいくときの帰り、暗いときにはそのオオカミがかならずのべや坂で七之丞を迎えにくるようになった。
 朝まだ暗いと、のべや坂でオオカミが待っていた。そして、夜があけ、亀山の民家があるところまで送ってくれた。明るくなりニワトリが鳴きはじめると、いつのまにか帰っていった。山のなかだけ送ってくるのだった。また亀山からの帰り、遅れて暗くなると出迎えてくれた。そして、のべや坂をこえ、民家がみえるところまでくると、またいつの間にかいなくなった。そのようなことが何度となく続いた。オオカミは、朝晩の送り迎えを忘れなかった。
 そんなある日のこと、七之丞の亀山からの帰り道のことである。その日も暗くなってしまった。いつものようにオオカミが迎えにきていた。ところが、七之丞の着物のすそをくわえて引っ張る。どうもどこかへ、連れていこうとしているようである。七之丞はしかたなくオオカミのいうままについていった。オオカミは七之丞をほらあなに連れていき、なかに入った。そして、そこへ木の枝や草をたくさん持ってきて、七之丞をすっかり隠してしまった。オオカミは、七之丞を隠した後、その前へのたり込んだ。
 まもなく、どこからともなく大きな地響きがして、千匹ほどのオオカミの群れが現れた。しかし、七之丞は隠されているので、オオカミの群れは知らずにいってしまった。もし、みつかっていたら七之丞は食べられていたに違いない。オオカミは、千匹ほどの群れがやってくることを知っていて七之丞を助けたのである。
 それ以来、オオカミは七之丞の前に姿をみせなくなった。


 七之丞とは、稲垣弘氏(一色)の五代前、江戸時代末(19世紀前半)の人物であり、当時、豊津の浜にあがった魚を毎日亀山まで商いにいっていた。七兵衛光とは、七之丞の家の通称の呼び名(屋号)である。

【かわげの伝承より】
かわげの伝承 「池からお出ましの虚空蔵さん(高佐地区)」 
池からお出ましの虚空蔵さん
(池からお出ましの虚空蔵さん)
 古い記録によると、第五十四代仁明天皇の時代に、弘法大師が、高佐にこられたことがあるという。その時、氏神さんの日天八王子の神前に、
「恐れ多いことですが、どうか御神体を拝見させていただきたい。」
といって、十七日間、密教の法を修め祈願した。
 その満願の夜、夢の中に老人が出てきて、大師の枕辺に立ち、
「わたしは今お庭へ一本の柏の木を持ってきました。これをあなたに差しあげます。」
とていねいにいって、西方へ去っていった。
 すると不思議にもすぐ白雲が湧き、音楽が聞こえてきて、今度は天人が舞いおりてきた。そして大師に、
「今あなたに授けた柏の木で、像を彫ってみなさい。この木の中に虚空蔵菩薩の尊いお姿が現れます。これがすなわち八王子の御神体です。」
と告げて、この天人も西方へ去っていった。
 夢がさめた大師は不思議に思って、庭をみると、一本の柏の木があった。
 これはまちがいなく八王子さまのお告げであると思い、すぐ斧を持ってきて、柏の木を割った。それをみた大師は、
「これは、三体の菩薩さまのお姿にちがいない。」
といって、すぐさま彫り始めた。わずかの日数で、この菩薩はできあがった。
 大師はたいへん喜び、この菩薩像をおまつりして焼香礼拝した。その時、不思議なことにこの仏像が声をお出しになり、
「わたしは、日本の高い山の峰にあって、すべての人々や生き物たちに福徳円満を与えるつとめをしている。」
といわれた。このお言葉によって、三体の仏像は、高佐の芥子山福満寺と度会郡の朝熊嶽と鈴鹿郡の白木山の三か所にまつられた。この仏像は一樹三体の尊像となっていて、世にもまれなことであるといわれている。
 しかしながら、慶長十八年(一六一三)三月中旬に、思いがけなく高佐のこの寺は火事で全焼してしまった。
 集落の人々は、涙を流して歎き悲しんだ。この由緒ある寺や御本尊を焼失してしまったことで、悲しみと落胆のあまり、日々の仕事も手につかぬありさまであった。
 ところが、その翌年の正月十二日夜に住職の元寿僧正が不思議な夢をみた。
 それによると寺の東北にある池に中から、金色の光をはなっている龍が、頭に菩薩をのせ、水面に浮かびあがっている。元寿はびっくりして夢からさめ、すぐとび起きて池へかけていった。
 するとどうだろう、夢のとおり池の水辺に金色に輝いた龍が、頭上に虚空蔵菩薩をのせて、水面に浮かびあがっているではないか。元寿は、
「これはもったいないお姿です。」
と地にひれ伏して礼拝した。そうして、
「どうか、この菩薩さまを、この集落の本尊として、お迎えしたいのです。」
と懇願した。願いがとどいたのか、龍は岸辺に近づいてきたので、この菩薩を龍の頭上からいただくと、それをみとどけた金色の龍は静かに水の底へ沈んでいった。
 このことを聞いた高佐の人々は、元寿の教えを受けて、この菩薩を本尊として日々礼拝した。
 この寺は、昔から芥子山福満寺という寺の名であったが、このような不思議な出来事があってからは、金龍山妙光寺と名を改めた。
 後世の人々は、この菩薩を「池からお出ましの菩薩さま」といっており、またこの池を虚空蔵池とよんでいる。

【かわげの伝承より】
かわげの伝承 「弘法(こうぼう)さんの井戸(上野地区)」 
弘法(こうぼう)さんの井戸
(弘法(こうぼう)さんの井戸)
 昔、上野の村をとおりかかった旅の高僧が、一軒の農家に立ちより、
「旅の者であるが、のどが大変かわいている。のどをうるおす水をいただけないか。」
といわれた。その家人は、
「このあたりは赤水(あかみず:鉄分を多く含み飲み水に適さない水)しか出ませんので、しばらくお待ちください。」
といい、急いできれいな水を遠くまでくみにいき、差しあげた。
 高僧は大変喜ばれ、
「さぞ、日々の飲み水に困っていることでしょう。ここをためしに掘ってみなさい。」
と、持っていた錫杖(しゃくじょう)でお指しになった。
 近くの人々が高僧のいわれたところを掘っていくと、清水(しみず)がわきでて、その水は次から次へとあふれんばかの量であった。
 人々は、
「弘法さまのおかげだ。ありがたいことだ。」
と大変喜んだ。そして、さっそく近くの人々は「弘法講」(こうぼうこう)という仲間をつくり、井戸のまわりに屋形を建て、弘法大師の石の座像を安置した。村人はこの井戸を「弘法井戸」と称して大切に使ってきた。
 伊勢街道を旅した人々も多く立ちより、この水でかわいたのどをうるおし、旅の疲れをいやしたという。

 この「弘法井戸」は、上野中町にあり、昭和40年(1965)ごろまで、共同井戸として使われていた。
 毎年、4月21日には、「弘法まつり」が催され、そのころまでは近くの町や村からも多くの参詣者がありにぎわっていた。
 屋形や井戸の保存、祭礼の経費は、3アールほどの「弘法田」という共有田で収穫された米でまかなっていたが、昭和20年代に国道23号が現在のところに設けれられたことによって田がなくなり、それ以後は講の方々が出しあってまかなっている。
 現在では、近所の6軒で弘法大師の遺徳をしのび、講をつくり、井戸の管理・保膳・まつりを継承している。
 まつりの日には、赤字の布に「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)と墨書したのぼりを10本ほど立て、米、野菜などの農産物や竹の子、ふきなど季節の食べ物をお供えする。さらに、もちを2臼つき、まるい形にまるめてお供えし、残りは参拝者にくばっている。
 この井戸も現在ではほとんど利用されていないため、「そぶ」などの水あかがたまり、4月の祭礼と8月のお盆の前の2回、井戸のそうじをすることにしている。

【かわげの伝承より】
 関連リンク
国税庁ホームページ
  http://www.nta.go.jp
確定申告特集
  http://www.nta.go.jp/tetsuzuki/shinkoku/shotoku/tokushu/index.htm
津市物産SHOPついーと
  http://www.z-eat.com/
Last Updated:2019/03/29  
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